月に2回ほど東京へお勉強に行く。
そのなかで『カイロプラクティック哲学』という講義がある。
哲学の講義では、生命とはなにか?カイロプラクティックの目指す健康とはなにか?
そんなことを徹底的に深く掘り下げる。
哲学の講義では、正解のないものを自分なりの解釈で説明する能力を養う。
それと 、仮説をもとに、実証できない真実を導き出す。
という、たいそうな学問である。
その日の講義も、私は相変わらず一番前の真ん中に席を陣取っていた。
先生『はい、ではこの件について、となりの人とディベート(注)してください。』
ディベートとは、議論ではない。
事実と異なろうが、主張を相手に認めさせる。
それがディベートだ。
えーと、となりとなり・・・
右隣?
左隣?
数えてみたら、最前列は7席。
私は右から3番目にいた。
2列目からは8席。
と、数えている間に、両隣の人は私に背を向け、その隣の人とディベートを始めてしまっていた。
ヤヤヤバイ(ーー;)
孤立した(゚Д゚;)
みんなワイワイ話し合うなか、私だけが独りだ。
一人で盛り上がらないと、一人なのがバレる。
一人ディベート。
エア・ディスカッション。
一人でやるのはキビシ過ぎる。(´゚д゚`)
最近一人ジャンケンを始めた3歳の娘。
こんな孤独のなか覚えた遊びなのかと思うと、胸が締め付けられる。
あんなに楽しそうに一人ジャンケンができる、娘のハートの強さが羨ましい。
娘が風呂あがりに鏡とにらめっこしているのは、孤独ではなく 単に趣味なのだろうか。
玩具のケータイで、会話相手もいないのに延々と話をしている時もある。
単に妄想野郎なだけなのか。
人生で一番辛いのは孤独かもしれない。
この年になって、便所飯(注)の辛さを体験するとは思わなんだ。
便所飯とは、お昼休みに一緒にお弁当を食べる人がいない。
そして、友達がいないのを隠すために、便所でお弁当を食べる行為である。
孤立がツライのではない。
孤立しているのを人に見られるのが、いたたまれないのだ。
便所で飯を喰えば独りだが、孤立を隠すことができる。
さて、この状況の私。
便所飯に似ている。
一人で哲学について考えるのは、いとも簡単だ。
ただ、教室のド真ん中最前列で孤立している。
それをみんなの目にさらされている。(と妄想している)
なるほど。
孤立とは、まわりの大衆が存在して成り立つものなのだ。
つまり、まわりと比較しなければ、孤独は感じないはずである。
このように、私は『孤独と孤立』をテーマに一人でディベートし、自分なりの答え導きだしたのであった。
やはり頭で考えただけよりも、体験から導きだした答えの方が良い。