私がカイロプラクティックを好きな理由。
それはカイロプラクティック独自の哲学にある。
カイロの哲学とは、いわばカイロ独特の世界観や価値観を指す。
カイロプラクティックは術者が患者さんに健康を与えるものではない。
カイロプラクティックは患者さんと一緒に健康を考え、患者さん自身の意識や身体を、健康へシフトさせていくものだ。
カイロプラクティックの哲学を深く理解すればするほど、患者さんへの接し方や説明はもちろん、自分の生き方すら変わってくる。
去年1年間、久しぶりにカイロプラクティック哲学の講義を受講した。
健康とはなにか。
生命とはなにか。
そういったことを深く学ぶ学問である。
哲学とは答えを暗記する学問ではない。
一つの問いかけに対して、どれだけ深く自分が考えるか。
そこに価値がある学問なのだ。
カイロプラクティック哲学では、いのちとは何か。
そのなかでカイロプラクティックはどういう役割であるべきか。
徹底的に自分の言葉で語れるまで深く考える。
その日の講義のテーマは生命の5原則。
生命は吸収、排出、成長、適応、生殖して生きている。
これが生きている証なのだそうな。
鉱物は成長や適応・生殖、排出なんかしない。
植物は人間と同じく吸収、排出、成長、適応、生殖する。
ふと思った。
じゃあ動物と植物の違いは?
植物はなぜ生まれてきた?
頭のなかでグルグルと考えがめぐる。
東京から帰りの飛行機で考えた。
植物は、『なぜ自分は生まれてきた?』
なんて多分悩まない。
一つの答えが頭に浮かんだ。
その植物を必要とするもののために生まれてきたのだと思う。
その植物を食べる動物がいたり、その動物を食べる動物がいたり。
さらには植物が排出する酸素が地球の秩序にとって必要だから。
私のなかで複雑にからまった点と線が『ピーン』と一つに繋がった。
つまり、『すべての生き物は、自分以外のもののために生まれてきたのではないか。』
もちろん植物だけでなく、人間も動物も。
これぞ無償の愛だと思う。
そして自然を通して植物や動物は、お互いが生きることで秩序を作り上げ、共存しているのだ。
その姿を観て、人間も自然の一部なのだと改めて心の底から納得できた。
やはり物事の真理はシンプルなのだ。
シンプルながら、すべてつじつまが合う。
私は帰りの飛行機で開眼した。
悟りを開いたのだ。
私は神になった。
ゴメン。
それは言い過ぎた。
私が親指だとすると、私の家族は人差し指。
中指はそれ以外の人間で、薬指は動物、小指は植物。
といったところか。
親指から見れば、人差し指・中指・薬指と、どんどん遠い存在となるが、根っこではすべて手で繋がっている。
親指も小指も、どちらが上とか下とか、正しいとか間違いはない。
あるのは役割分担だけ。
親指から見たら他の指は他人に見えるが、結局はすべて自分の一部だったのだ。
と自分の胸にストンと落ちた。
自分も自然の一部として生まれ、なにか意味があってこの世界にいて、この仕事を選んだ。
これからはもっと、人に優しく生きていこう。
と、この時ばかりは胸に誓ったのであった。