子供の運動会をみていて、自分の運動会での出来事を思い出した。
私が小6の時、かけっこは速い人ばっかり6人、遅い人ばっかり6人で組み分けされた。
『脚の遅い人にも、かけっこで1番をとらせてあげたい』
という先生の粋な計らいである。
神田のカールルイスと異名のあった私は、速い組でも1位を死守した。
だが普段1位をとれるような友達が、速い組に回されて6位になった人もいる。
彼にも両親や祖父祖母がいて応援に来ているだろうに。
彼にも脚が速いというプライドがあるだろうに。
彼へのフォローは必要ないのかと心配だった。
逆に脚の遅い人たちの6人組。
確かにこの中で、初めて1位をとる人がいるだろう。
一生の思い出になるかもしれない。
でも6位になる人もいる。
普段かけっこが遅くて、ビリばっかりの友達が憂鬱になっていた。
遅い組の6位は、普通の6位と違う。
『学年で最も鈍足は誰だ。』
という称号をかけた闘いとなるのだ。
遅い組の6人は、
『このメンバーなら1位をとれるかもしれない』
という喜びより
『このメンバーで6位だったら、どれだけ辱めをうけるか』
という憂鬱が勝ったのだ。
運動会少年であった私は、先生の決めたこの組み分けで、みんながウキウキしていたのか憂鬱なのか敏感に感じ取っていた。
確かにかけっこが接戦になる方が、見ている側は盛り上がる。
これは平等なのか、正しい競争なのか考えてしまった。
私は小学校の頃から、
なにが平等でなにが不平等なのか。
なにが差別でなにが区別なのか。
なにが正義でなにが悪なのか。
ひとつのお題をジーっと考える癖がある。
まだ答えはほとんどでていない。
テレビのクイズとかは、ほとんど答えられないけど。
答えのない問題を、どれだけ深く考えたかによって思考力は身につくと思うのだ。